2013年3月1日金曜日

男勝りな僕です ~優越感の落とし穴~


ある男子に言われた
「いつもそうやって男に勝とうとするの?」

え? 私、勝とうとしてる??
どういうことかと問うと、言葉を濁して話を逸らされてしまった

男に勝とうとする。。。

子供の頃、近所のお兄ちゃん達とよく遊んでいた。
男の子との遊びといったらほとんどが勝負事だから、私は勝つために必死だった。
彼らと対等じゃないと一緒に遊んでもらえないから、大抵の遊びでは男の子に勝っていた。
腕相撲は強かったし、高い所から飛び降りるゲームとか、クワガタ相撲とか、ラーメンの早食いでも勝利した。プラモデルを作れば男子より上手に作っちゃったし。。。

そのクセが抜けないのか、男子にはなぜか仕事でもプライベートでも無意識に戦いを挑んでしまうようだ。

冒頭の男子にはそれが透けて見えたのだろう

それにしても、なぜ私は男子に戦いを挑んでしまうのか。。。

だって! 自分より優れていると思う相手に勝つと、気持ちがいいんだもん!!
これは、まぎれもない優越感というものですね

優越感は、他者より自分が優れていると認識したときに沸いてくる感情。
この感情は、と~っても気持ちがいいもので、一度味わうとやめられない(笑
だから、この快感を得るために他者より優れた部分を自分の中に探し、見つからなければ
創り出すため相手に戦いを挑む。

優越感を感じるタイプの人は、劣等感も感じます。
なぜなら、常に自分と他者を比較して「優劣」をつける思考回路だからです。
そこで他者のほうが優れていると自分が判断すれば、それは劣等感を生み出す結果となるのです。

自然の摂理としてエネルギーのバランスをとるために、優越感を感じた同じ量の劣等感が返ってきます
そしてまた優越感を手に入れるために、自分の中で闘いを始めるのです

正直、この繰り返しは苦しいよ(苦笑

優越感を感じない人は、劣等感も感じないニュートラルな人。

だから、優越感を感じることをやめてしまえばいいんだよね。
でも、どうやって?? 


中学時代、自転車通学をしていた。
私が住む地区から学校までは長い坂道があり、行きは下りで悠々だが、帰りの登り坂は心臓破りだった。

ある冬の朝、夜中にうっすら積った雪が氷り、坂道はスケートリンクのように滑りやすくなっていた。私は凍った路面に自転車を滑らせるのが得意だった。
下り坂で思いっきり自転車をこいで加速させ、一気にブレーキをかけると、シャーっとなめらかに滑り、軽く斜めに傾きながら止まる。
これは、バイクが急ブレーキをかけて弧を描きながら止まるようなダイナミズムを味わえる。

この日の朝も、私は下り坂で勢いを付けた自転車のブレーキを一気にかけ、美しい弧を作り、セーラー服のスカートをなびかせながら見事なフィニッシュを決めた。

その瞬間をクラスメイトの男の子、ユーゴー君が見ていた。ユーゴー君はイギリス人の父を持つハーフで、彼の名前は「レ・ミゼラブル」のヴィクトル・ユーゴーからとったらしいが、当時の中学生の読み物といったら「少年ジャンプ」や「コロコロコミック」が主流で、ヴィクトル・ユーゴーってなんのこと?そんな文豪知らない。そもそも文豪って何?って感じだから、「ユーゴー」と名付けたご両親の功績を誰も称賛することはなかった。

そのユーゴー君がたまたま私の小技を見て、頼んでないのに闘志を燃やしてきた。

「プチケイト! 俺の滑りを見ろ!」

そして、よせばいいのに立ちこぎで自転車に加速を付け、立ちこぎのまま急ブレーキをかけた。
自転車はバランスを崩し醜く蛇行しながら倒れ、自転車から放り出されたユーゴー君の体は路面で2回転して止まった。そして彼の横では、かぶっていたヘルメットがコマ回しのコマのようにクルクルと回っていた。

それを尻目に私が去ろうとするとユーゴー君が叫んだ

「プチケイト、待て! お前スゲえな! 俺のムコ(婿)になれ!!」 

は?どういうこと?男としては私に勝てないってこと?

この瞬間、私の中にとめどない優越感が沸きあがってきた。
ユーゴー君より美しい滑りができる私は優れた人間。
そして、私は男がひれ伏すだけの価値がある人間。

「ユーゴー君が花嫁じゃ物足りないわ!!」
と言って、人生初のプロポーズを却下した覚えがある。


しかし果たして、ユーゴー君の滑りは私より劣っていたのか? 本当にそうか?
たしかに彼の滑りは醜かった、それは認める。でも、あれから20年以上経った今も、ユーゴー君の滑りの一部始終を鮮明に覚えている。

あの坂道を通ると、ふと思い出す。

それほどまでに私の記憶を支配し、衝撃を与えた彼の滑りは、むしろ、「勝ち」ではないのか?
あえて「優劣」をつけるのであれば、私の一糸乱れぬ滑りよりも意外性に「優れ」、そして、私がこの年齢まで記憶のハードディスクに保存するだけの「価値」があったのではないのか?

「勝ち」「負け」も、「優劣」も、「価値」も、角度によって変化する曖昧で不安定なものにすぎない。
そんなものにしがみつき、自分を縛る必要はない。

そもそも物事には「優劣」も「価値」もなく、すべては自分が創りだした幻想であり、ただそこに存在するものに、勝手に「優劣」や「価値」をつけて喜び、苦しんでいるだけのこと。

はっきり言えば、世の中には「優れた人」も「劣った人」もいないし、
「価値がある人」も「価値がない人」もいない

みんな、「ただの人間」なのだ

この世に「優劣」はないということに気づけば
自分の価値をめぐる闘いは終息し、優越感も劣等感も生まれてこない、、、のかも??







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